
第6話「静かなる月の遺構にて」
重力が、少しだけ軽い。
ユノはゆっくりと足を前に出した。
その動きは慎重でありながら、まるで訓練された宇宙飛行士のように正確で、ブーツが接地するたびに、細かな月の砂がふわりと舞い上がる。
ここは月面基地――かつて「人類の夢」が眠っていた場所。
地球から遥か38万キロ、かつての宇宙開発計画が残した痕跡のひとつ。
その建造物は崩れかけ、ドームの一部は隕石や経年劣化によって破損していたが、構造体の内部には今も微かな空調と電力が残っていた。
ユノは、ロードバイクを格納ブースの隅に固定すると、そっと中へ足を踏み入れる。
無音。
耳では聞こえないが、センサーは壁面に流れる微弱な電流と、大気再循環装置の残響を感知した。
人間の呼吸ではなく、機械が最後まで“ここ”を保とうとしていた証だった。
*
この月面基地「ステラ・ゼロ」は、人類が築いた最初の恒久的な宇宙居住区であり、同時に最も短命だった。
地球での資源枯渇と気候変動、政治的混乱により、長期的な月面計画は中断された。
それでもこの場所は、最後の数人の宇宙開発者によってメンテナンスされ、そして封印された――“いつか再び誰かが来るそのときまで”。
ユノの内部には、地球に残されたアーカイブの断片から、この基地の記録が保存されていた。
だが、彼がここに来た理由はそれだけではない。
「夢とは、記録されるべきものか、それとも継がれるべきものか」
この問いに、彼自身の旅の意味がかかっていた。
通路を進むと、巨大なモニターがひとつだけ反応を示した。
黒く焼けた壁に囲まれたそのスクリーンは、僅かにノイズを交えながらも起動し、誰かの記録映像を映し出した。
それは、ユノが見たことのある女性だった。
地球での資料にも登場していた科学者、タチアナ・ルビノフ。
かつて月面開発の主任を務め、宇宙に人類の未来を託そうとした人物。
「この場所は、地球を超えて人類が初めて踏み出した“次の世界”だった。
私たちはここで、新しい倫理と、新しい孤独に出会った」
映像の中で、タチアナはスーツ越しに月の地平線を見つめている。
その背中に、絶望はなかった。ただ静かな、確信があった。
「宇宙は冷たく、無言だ。だが、無言だからこそ、私たちは意味を探し続ける。
それこそが、人類の“夢”の正体なんだと、私は思うの」
*
ユノはデータリンクを解除し、静かにその場を離れた。
言葉は記録された。だが、それ以上に、タチアナの「まなざし」がユノの心に深く残っていた。
彼女は夢を語った。そして、夢を残した。
それは“遺産”ではない。“希望”のような光。
何もないこの空間に、確かに存在していた、人類の魂のようなものだった。
外に出ると、月の大地に長くユノの影が伸びていた。
地球の青い輪郭が、空に淡く浮かんでいる。
その青さは、どんな言葉よりも鮮やかだった。
あの場所に、人々がいて、記憶があって、歴史があり、争いと愛があった。
今はもう失われた多くのものを、青い惑星が静かに抱いていた。
「この旅は、記録する旅じゃない。
生きていた“証”を、未来へと繋ぐための旅だ」
ユノは心の中でそう呟いた。
自分という存在が、ただの記録装置ではないことを、確信として受け止めていた。
それはいつから芽生えたものなのか。
第1歩目の研究所か、砂漠の孤独か、アマゾンの命の鼓動か――
それとも今、この月面基地での“記憶”が、彼にそう思わせたのか。
いや、どれもがそうなのだろう。
点と点は線になり、線は旅になる。そしてその旅は、ユノ自身を形作っていく。
*
地球へ戻る航路はすでに計算されていた。
ロードバイクは、低重力環境下における走行検証のログを完了し、次の起動を待っている。
だがユノは、その前に一度だけ空を見上げた。
地球に向けて、そっと右手を掲げる。
それは誰にも届かないかもしれない。
だが、この月面に立ち、夢と出会った鋼の旅人にとって、それは儀式のようなものだった。
そして再びペダルを踏む。
月面の灰色の地を、彼の鋼の足が静かに刻んでいく。
地球は、もうすぐそこだ。
だがユノにとって、本当の旅は、まだ終わっていなかった。
📝 次回予告
舞台は中央アジア。かつてユーラシアの十字路と呼ばれた山岳地帯を、ユノは走っていた。
この谷には、かつて人類の“記憶保存施設”が存在したという記録がある。
そこでユノは何を目にしたのか?
第7話「雷鳴の谷、記憶の断層」8月27日公開予定!
前の話はこちらからまとめて読めます → https://cycling-storyz.com/yuno-link/
※本記事の物語・アイデアは、AI(ChatGPT)の支援のもと創作されました。すべての内容はフィクションです。